今戸神社 → 待乳山聖天 → 浅草寺のほおずき市 → 合羽橋
先ず、隅田川のすぐ側に位置する今戸神社から歩きはじめる。今戸神社の創建は、康平6年(1063)と古い。
歴史ある神社を訪れると目にするのが<藤原親子が奥州へ討伐・・・>という由緒書きだけれども、今戸神社も同じ。 |
今戸焼きと招き猫
江戸末期のころ、猫好きの老婆がおりましたが、極貧ゆえ泣く泣く猫を手放さざるを得ませんでした。ところが、猫が夢に現われ、「自姿を今戸焼きで造れば福徳が授かる」というので、浅草の参道で売り始めるとそお通りになったというのです。
本殿には多数の猫が納められています。数字の9を(来る)、数字の29を(福)と読み「来る福」と言うことで、9月29日は「招きの日」なのだとか。 |
縁結びのお願いは、まん丸で可愛らしい招き猫の絵馬
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新撰組一番組隊長、沖田総司終焉の地
労咳を患っていた沖田総司は、幕府の御殿医松本良純
による治療の甲斐もなく、この地で人生の幕を閉じた |
台東区有形文化財
この石造りの狛犬は今戸焼職人によって宝暦2年
(1752年)に今戸八幡神社(現在の今戸神社)に
寄進されたもので、制作者は、浅草新堀の石工
小松屋竹右衛門といわれている。
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待乳山聖天(まちつやましょうてん)は、関東三聖天の一つで浅草近辺では最も古い寺と言われている。
広重の錦絵にも描かれている江戸末期の築地塀が、今も残されている。 |
「巾着」は、商売繁盛の象徴「二股大根」は健康と和合の象徴なのだとか、これらをモチーフにしたもものが沢山ある。
「哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉」
江戸元禄時代の代表的歌人、戸田茂睡歌碑 |
天狗坂、昔は天狗が出そうな、鬱蒼とした森があったそうな |
7月9日10の両日は、浅草寺が1年の内で一番賑わう日で、70万人がみこまれている。とりわけ、10日にお参りすると、四万六千日分の功徳が得られると言われている。 |
よしずばりの店が並び、ほおずきの鉢植えと風鈴を提げた釣りしのぶ、この風情に心和む
宅急便は全国一律800円 宅急便の店先には 梱包する鉢植えが所狭しと並べられていた
「かっぱ橋通り」は、道幅が狭くなんとなくレトロな感じのする一直線の長〜い商店街
華やかさは無いけれどもとても良い感じの通りで、七夕飾りが遠くまで見える。
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河童寺入り口に、面白い伝承が書かれた看板がありました
文化年間(1804〜17)に、当地の住人で雨合羽商の合羽川太郎(合羽屋喜八)という人物がいた。この付近は水はけの悪い低地でアメが降ると洪水となり、人々は困窮していた。そのため川太郎は私財を投じて排水のための掘割工事にとりかかった。このとき、かつて川太郎に助けられた隅田川の河童が工事を手伝い、掘割工事が完成した。この合羽を目撃すると商売繁盛したという。 この伝承が「かっぱ寺」という通称の由来であり、「合羽橋」(合羽橋交差点の付近にあった)という橋の名もまた、この伝承に由来するともいわれる。当寺には河童大明神が祭られるほか、合羽川太郎の墓とつたえる石碑があり、「てつへんへ手向けの水や川太郎」という句が刻まれている。(台東区教育委員会)
入り口の横に摩訶不思議な木像「かっぱのぎーちゃん」が鎮座していました。 |
うっかりすると見落としてしまいそうな寺の入り口 |
河童池の河童 |
社階段下にある「てつへんへ・・・」の石碑と河童 |
河童の賽銭箱 |
流石は合羽橋、町のいたるところに河童が住んで?いた
合羽橋商店通りは、合羽橋道具街ではなかった。本日の散歩はこれにて修了
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